デルタブルースの東京大賞典挑戦!その理由と蹄跡

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メルボルンカップを制しオーストラリアで英雄となった名馬、デルタブルース。彼の競走生活の中でも、芝の有馬記念から中5日でダートの東京大賞典へ向かった前代未聞のデルタブルース連闘は、多くのファンに衝撃を与えました。この記事では、デルタ ブルースと はどのような馬であったのか、その輝かしい成績、特にデルタブルースの菊花賞制覇から、岩田騎手とのコンビで掴んだ栄光を振り返ります。また、古馬となった2005菊花賞の年や、世界へ羽ばたいた2006菊花賞の年を経て、なぜ彼はデルタ ブルースとして東京 大賞 典に挑んだのでしょうか。デルタブルースという馬のキャリアを紐解きながら、デルタブルースが種牡馬にならなかったのはなぜか、そしてデルタブルースの現在に至るまでの蹄跡を徹底解説します。

  • デルタブルースの菊花賞からメルボルンCまでの輝かしい戦績
  • 有馬記念から東京大賞典という異例の挑戦の背景
  • 種牡馬にならず乗馬として歩んだ第二の馬生
  • デルタブルースの競走生活が競馬史に残した功績
目次

デルタブルースが東京大賞典へ至るまでの軌跡

  • デルタ ブルースと はどんな競走馬だったか
  • デルタブルースの菊花賞での衝撃的な勝利
  • デルタブルースと岩田騎手が築いた信頼関係
  • デルタブルースのオーストラリアでの歴史的快挙
  • 古馬となった2005菊花賞後のデルタブルース
  • 世界へ挑んだ2006菊花賞の年

デルタブルースとはどんな競走馬だったか

デルタブルースとは、日本の競馬史、ひいては世界の競馬史にその名を刻んだ一頭の競走馬です。2001年5月3日に北海道のノーザンファームで生を受けました。父は菊花賞馬のダンスインザダーク、母はディクシースプラッシュという血統で、長距離を走り抜く無尽蔵のスタミナを受け継いだ、典型的なステイヤー(長距離を得意とする馬)でした。

しかし、その競走生活は決して順風満帆なものではありませんでした。デビューから勝ち星を挙げるまでに6戦を要するなど、若い頃は素質を開花させられず、いわゆる「遅咲き」の馬と評価されていたのです。このため、陣営は彼の気性的な課題を克服し、レースに集中させるために「去勢」という大きな決断を下します。これにより、彼は競走馬としての能力を最大限に発揮できるようになりましたが、同時に種牡馬(繁殖用の牡馬)としての道を閉ざされることになりました。

デルタブルースのプロフィール

  • 生年月日: 2001年5月3日
  • 父: ダンスインザダーク
  • 母: ディクシースプラッシュ
  • 生産者: ノーザンファーム
  • 馬主: サンデーレーシング
  • 厩舎: 角居勝彦厩舎(栗東)
  • 主な勝鞍: 2004年菊花賞(GI)、2006年メルボルンカップ(G1)、2005年ステイヤーズS(GII)

彼の真価は、その類まれなるスタミナが問われる大舞台でこそ発揮されました。国内クラシック三冠の最終戦である菊花賞、そして南半球最大のレースであるメルボルンカップを制覇するという偉業は、彼の持つ不屈の闘志とスタミナの証明と言えるでしょう。

デルタブルースの菊花賞での衝撃的な勝利

デルタブルースの名が日本中に轟いたのは、2004年10月24日に開催されたクラシック三冠の最終関門、第65回菊花賞(GI)でのことでした。3000mという長距離を走るこのレースは、スタミナ自慢の馬たちが集う舞台ですが、当時のデルタブルースは単勝45倍の8番人気という、決して高くはない評価でした。

しかし、レース本番でデルタブルースと鞍上の岩田康誠騎手は、その下馬評を覆す圧巻の走りを見せます。岩田騎手はデルタブルースのスタミナを信じきり、道中は先行集団でレースを進め、ライバルたちがスパートするより一足早く仕掛けました。これは、瞬発力勝負では分が悪いと考え、持久力戦に持ち込むための見事な戦術だったのです。

直線に入っても彼の脚色は衰えることなく、後続の猛追を振り切って見事に1着でゴール。ハーツクライやコスモバルクといった後のスターホースたちを抑えての勝利は、多くの競馬ファンに衝撃を与えました。この勝利は、デルタブルースにとって初のGIタイトルであり、彼の持つ長距離ランナーとしての素質が本物であることを証明した瞬間でした。

菊花賞は「最も強い馬が勝つ」と言われるレースです。この大舞台での勝利が、後のオーストラリア遠征という大胆な挑戦へと繋がっていくのです。

デルタブルースと岩田騎手が築いた信頼関係

デルタブルースのキャリアを語る上で、主戦騎手を務めた岩田康誠騎手の存在は欠かせません。菊花賞での勝利は、デルタブルースにとってだけでなく、岩田騎手にとってもJRA(日本中央競馬会)のGI初制覇という記念すべき勝利でした。

当時、岩田騎手はまだ地方の園田競馬に所属しており、JRAのトップジョッキーたちと渡り合う実力を証明する大きなきっかけとなったのです。彼はデルタブルースの最大の武器であるスタミナを誰よりも信じていました。菊花賞で見せた早めのスパートや、後述するメルボルンカップでの大胆な騎乗は、馬の能力を120%引き出す、まさに「人馬一体」を体現したものでした。

この菊花賞制覇という共通の成功体験は、馬と騎手、そして管理する角居勝彦調教師との間に、言葉では言い表せないほどの固い絆と信頼関係を築き上げました。この信頼があったからこそ、陣営はオーストラリア遠征という前例の少ない大きな挑戦を決断できたと言っても過言ではありません。岩田騎手は、デルタブルースを世界の頂点へと導いた最高のパートナーだったのです。

デルタブルースのオーストラリアでの歴史的快挙

デルタブルースの競走生活における最大のハイライトは、2006年秋に敢行されたオーストラリア遠征にあります。これは単に一頭の馬が海外のレースに挑戦するという話ではありませんでした。言ってしまえば、角居勝彦厩舎がチームとして南半球の頂点を本気で獲りに行くという、極めて戦略的な遠征だったのです。陣営はデルタブルースだけでなく、僚馬(同じ厩舎の馬)であるポップロックも帯同させる「2頭出し」という万全の態勢で、南半球最大のレース「メルボルンカップ(G1)」制覇という壮大な目標に挑みました。

周到な準備が光った前哨戦

海外遠征における成否の鍵は、現地の環境にいかに早く適応できるかにかかっています。馬場の質、レース展開のペース、そして気候など、日本とは異なる要素は数多く存在します。そのため、陣営は本番の前に、ステップレースとしてG1「コーフィールドカップ」に出走させるという、周到な計画を立てていました。

このレースでのデルタブルースは、現地の強豪を相手にしながらも見事3着と健闘します。もちろん、勝ち星を挙げられなかったことを残念に思う声もありました。しかし、この一戦が持つ意味は、着順以上に大きなものだったのです。このレースを一度経験したことで、デルタブルースはオーストラリア特有の硬い馬場や、タイトなコーナーが続くコース形態に対応できることを証明しました。これは本番に向けて、陣営に大きな自信と確信を与える、何物にも代えがたい「価値ある3着」だったと言えるでしょう。

歴史が動いた「国をめるレース」

そして迎えた2006年11月7日、フレミントン競馬場。メルボルンカップは「the race that stops a nation(国を止めるレース)」と称されるほど、オーストラリア全土が熱狂する国民的行事です。その大観衆が見守る中、デルタブルースと岩田康誠騎手のコンビは、再び歴史に名を刻む走りを披露します。

フレミントン競馬場の直線は約450mと長く、通常であれば最後の直線まで脚を溜め、瞬発力勝負に持ち込むのがセオリーです。しかし、岩田騎手の選択は全く逆でした。彼はデルタブルースの最大の武器が、他馬を圧倒する無尽蔵のスタミナであることを見抜いていました。そして、残り1000mを過ぎたあたりから徐々に進出を開始し、なんと最終コーナーを回る手前、残り400m以上の地点で早くも先頭に躍り出るという、極めて大胆なロングスパートを敢行したのです。

これは、ゴール前での瞬発力勝負を避け、後続の馬たちにも早めに脚を使わせることでスタミナを削るという、まさにデルタブルースの特性を最大限に活かした騎乗でした。長い直線、後方からは同じ角居厩舎のポップロックが猛然と追い込んできます。同じ勝負服の2頭が壮絶な叩き合いを演じる中、ゴール板を駆け抜けた瞬間、その差はわずかにアタマ差。このとき、現地のテレビ実況アナウンサーが裏返った声で叫んだ「Japan One Two!! The Japanese have come to Flemington and conquered!」(日本のワンツーだ!日本人がフレミントンに来て征服した!)という言葉は、今なお語り継がれる名実況となりました。

メルボルンカップ制覇が持つ不滅の価値

この勝利は、単なるGI制覇という言葉では片付けられない、日本競馬界にとって計り知れない意味を持っていました。

  • 1861年の創設以来、146年の歴史で初のアジア調教馬による制覇という快挙
  • 日本調教馬にとっては、それまで未踏の地であった南半球G1レースの初制覇
  • 日本の生産・育成技術、そして陣営の戦略が世界トップレベルにあることを証明

これらの理由から、デルタブルースの勝利は、日本競馬界が長年抱いてきた悲願の達成であり、その後の日本馬による海外挑戦の道を大きく切り拓く、まさに不滅の金字塔となったのです。

古馬となった2005菊花賞後のデルタブルース

菊花賞馬となったデルタブルースですが、2005年のシーズンは、GIタイトルホルダーとしての期待を背負いながらも、やや苦戦を強いられることになります。菊花賞の勝利がフロック(まぐれ)ではなかったことを証明するため、国内のトップホースが集うGI戦線に挑み続けました。

この年の春は天皇賞(春)に出走するも、上位争いには加われませんでした。秋にはアルゼンチン共和国杯(GII)で5着となった後、年末の中山競馬場で行われる長距離GII「ステイヤーズステークス」に出走します。

3600mというJRAの平地競走で最長の距離を誇るこのレースで、デルタブルースは本来のステイヤーとしての能力を存分に発揮。見事に勝利を収め、菊花賞馬の貫禄を示しました。この勝利は、彼が日本の長距離界においてトップクラスの実力を持っていることを改めて証明するものであり、陣営に翌年のさらなる飛躍を期待させる価値ある一勝となったのです。

世界へ挑んだ2006菊花賞の年

前年にステイヤーズステークスを制し、長距離能力の高さを再確認させたデルタブルース陣営は、2006年、国内に留まるのではなく、世界へとその目を向けます。この年の目標は、前述の通り、オーストラリアのメルボルンカップに設定されました。

この「2006菊花賞の年」、つまりデルタブルースが5歳となったシーズンは、彼の競走生活の集大成と言えるものでした。春は国内のレースを走り、天皇賞(春)では10着に敗れましたが、陣営の目標は揺らぎませんでした。

当時は、現在ほど日本馬の海外遠征が一般的ではありませんでした。特に南半球への遠征は、検疫や輸送、季節の違いなど、数多くのハードルが存在します。その中でメルボルンカップ挑戦を決断した角居調教師のビジョンは、まさに先見の明があったと言えるでしょう。

秋になると、陣営は僚馬ポップロックと共にオーストラリアへ渡ります。この大胆な挑戦が、結果として日本競馬史に燦然と輝く「メルボルンカップ制覇」という偉業に繋がったのです。菊花賞を制したステイヤーが、その2年後に世界の頂点に立ったこの年は、デルタブルースにとって最も輝かしいシーズンとなりました。

デルタブルースの東京大賞典挑戦という決断

  • なぜ異例のデルタブルース連闘は行われたか
  • デルタ ブルースの東京 大賞 典での結果
  • デルタブルースの競走成績を一覧で紹介
  • デルタブルースが種牡馬になれなかったのはなぜ
  • 引退後、デルタブルースの現在と穏やかな晩年
  • デルタブルースの東京大賞典が示した挑戦

なぜ異例のデルタブルース連闘は行われたか

前述の通り、メルボルンカップ制覇という輝かしい栄光から1年が経過した2007年、6歳になったデルタブルースは、明らかにキャリアの岐路に立たされていました。この年の春は天皇賞(春)で12着、秋になっても天皇賞(秋)12着ジャパンカップ5着と、かつて世界を制した頃の輝きは見られず、勝利から遠ざかっていたのです。芝のトップ戦線では、年齢による衰えなのか、かつてのような圧倒的なスタミナで他馬をねじ伏せるレースが困難になっていました。

ここで多くの陣営であれば、過去の栄光を汚さぬよう引退を選択するか、格下のレースで有終の美を飾る道を探ります。しかし、デルタブルースを管理する角居勝彦調教師の選択は、全く異なるものでした。彼が下した決断こそ、競馬界の常識を根底から覆す「有馬記念からの東京大賞典」という、前代未聞のG1連闘策だったのです。

芝からダートへ、新天地を求めた挑戦

この異例のローテーションが選択された最大の理由は、芝のレースで「頭打ち」の状態にあったデルタブルースに、ダートという全く新しい可能性を見出そうとしたことにあります。一般的に、年齢を重ねたステイヤー(長距離馬)は、若駒のような瞬発力やスピードが衰えてくる傾向にあります。

そこで陣営が着目したのが、彼の血統背景でした。デルタブルースの母の父は米国の名馬「Dixieland Band」です。この血統は、芝だけでなく、パワーと持続力が要求されるダートコースで活躍する馬を多く輩出していることで知られていました。芝でのスピード勝負では分が悪くなった今、彼が秘めているかもしれないダートへの適性に賭けてみよう、という科学的根-に基づいた仮説があったのです。

芝とダートの違いとは?

競馬のコースには、主に芝(Turf)とダート(Dirt/砂)の2種類があります。芝コースはクッション性が高く、スピードが出やすいのが特徴です。一方、ダートコースは砂が深くパワーを要し、キックバック(前の馬が跳ね上げる砂)もあるため、馬の精神的な強さも問われます。求められる能力が全く異なるため、両方のG1で好走するのは極めて困難とされています。

角居調教師の「挑戦」という哲学

この常識外れの挑戦は、デルタブルースを世界的名馬に育て上げた角居勝彦調教師の哲学そのものを体現していました。彼は、常に現状に満足せず、新たな挑戦の場を模索し続ける革新的なトレーナーとして知られています。そもそも、当時はまだハードルが高かったオーストラリア遠征を成功させたこと自体が、彼の挑戦者精神の表れでした。

私であれば、こう考えます。角居調教師の中には「世界の頂点を極めた馬を、静かに終わらせてはいけない。彼が持つ可能性の最後の1滴まで絞り出したい」という、デルタブルースへの深い愛情とリスペクトがあったのではないでしょうか。だからこそ、前例のない挑戦に踏み切れたのだと。

芝での道が厳しくなったからといって、安易な道は選ばない。馬の血統や特性を深く分析し、わずかでも可能性があるのなら、それがどれだけ困難な道であろうと挑んでみる。この一貫した姿勢こそが、デルタブルースを菊花賞馬へ、そして世界のチャンピオンへと導いた原動力だったのです。

常識を覆す「連闘」という選択の過酷さ

もっと言えば、この挑戦がいかに異例であったかは、「連闘」という点に集約されます。連闘とは、レースから次走までの間隔が非常に短い(今回は中5日)ローテーションのことです。

肉体的・精神的な極限の負荷

人間のアスリートがオリンピックの決勝を戦ったわずか6日後に、全く別の競技の決勝に挑むのを想像してみてください。G1レースは、競走馬にとってそれほどの極限状態です。有馬記念という年末の大一番を全力で走った後の消耗は計り知れません。そこから心身ともに回復させ、さらに舞台を全く異なるダートに変えて再び最高峰のレースに臨むことは、通常では考えられないほどの過酷な選択でした。

結果として、この試みが成功することはありませんでした。しかし、この挑戦の裏には、芝でのキャリアに見切りをつけ、新天地に活路を見出そうとした陣営の苦悩と、最後まで諦めない挑戦者としての魂が確かに存在していました。勝利という結果以上に、このローテーションそのものが、デルタブルースという名馬の物語を象徴する出来事として、多くのファンの記憶に刻まれているのです。

デルタブルースの東京大賞典での結果

大きな注目を集めたデルタブルースの東京大賞典挑戦ですが、その結果は厳しいものでした。有馬記念での疲れが抜けきらない中、初のダートGI挑戦ということもあり、レースでは持ち味を発揮することができませんでした。

当日のレースでは、ヴァーミリアンやフリオーソといった、当時のダート界を代表する強力なメンバーが揃っていました。デルタブルースは道中、中団あたりを進みますが、勝負どころでいつものような伸び脚は見られず、結果は12着に終わります。先に行われた有馬記念でも12着だったため、連闘策は残念ながら実を結びませんでした。

しかし、この結果だけで彼の挑戦を評価することはできません。芝で世界の頂点を極めた馬が、キャリアの晩年にダートの最高峰レースへ挑んだという事実そのものが、彼の非凡さと、最後まで新たな可能性を追求し続けた陣営の姿勢を物語っています。この挑戦は、デルタブルースのキャリアにおける一つのエピソードとして、ファンの記憶に深く刻まれました。

デルタブルースの競走成績を一覧で紹介

デルタブルースは、2003年のデビューから2009年の引退まで、32戦を走り抜きました。その戦績は決して勝ち星の数が多いわけではありませんが、要所での勝負強さが光ります。特に、GIレースでの2勝はどちらも歴史的な勝利でした。

ここでは、彼の輝かしい競走成績を一覧表で振り返ります。

日付レース名グレード距離(m)騎手着順
2009/05/31目黒記念GII芝2500岩田康誠16着
2006/11/07メルボルンCG1芝3200岩田康誠1着
2006/10/21コーフィールドCG1芝2400D.ローウィラー3着
2005/12/03ステイヤーズSGII芝3600O.ペリエ1着
2004/11/28ジャパンCGI芝2400安藤勝己3着
2004/10/24菊花賞GI芝3000岩田康誠1着
2004/04/17未勝利戦芝2000武幸四郎1着

※上記は主な成績を抜粋したものです。全成績は32戦6勝(うち海外2戦1勝)でした。

通算成績は32戦6勝。菊花賞、メルボルンカップという国内外の最高峰レースを制した一方で、デビューから初勝利まで6戦を要したことや、キャリア晩年の挑戦など、その蹄跡はまさに波瀾万丈でした。

デルタブルースが種牡馬になれなかったのはなぜ

菊花賞とメルボルンカップという、日本とオーストラリアの最高峰G1を制したデルタブルースですが、引退後に種牡馬(しゅぼば)になることはありませんでした。これほどの輝かしい実績を持つ馬が、なぜその血を後世に残さなかったのでしょうか。

その理由は極めて明確で、彼が「セン馬」、すなわち去勢された牡馬だったからです。

セン馬(去勢された牡馬)とは?

気性が激しすぎてレースに集中できない、いわゆる「気性難」の牡馬に対して、気性を穏やかにさせる目的で去勢手術が行われることがあります。手術を受けた馬は「セン馬」と呼ばれ、競走能力の向上が期待できる一方、生殖能力を失うため種牡馬になることはできません。

デルタブルースがいつ去勢されたかの正確な記録は定かではありませんが、デビュー当初なかなか勝ちきれなかったことから、陣営が彼の競走能力を最大限に引き出すために、この決断を下したと考えられています。

この決断は、結果的に彼の競走生活そのものを良い方向へ導きました。種牡馬としての未来を断つ代わりに、彼は競走馬として長く走り続けることが可能になり、そして何より、気性が穏やかになったことは、長期にわたるオーストラリア遠征を成功させる上で、目に見えない大きなアドバンテージとなったはずです。血を残すのではなく、歴史に残る走りを見せることが、デルタブルースに与えられた宿命だったのかもしれません。

引退後、デルタブルースの現在と穏やかな晩年

2009年6月11日、デルタブルースは競走馬登録を抹消され、多くのファンに惜しまれつつターフに別れを告げました。しかし、彼の非凡な物語はここで終わりではありませんでした。競走馬の引退後の「セカンドキャリア問題」がしばしば課題として挙げられる中で、彼の第二の馬生は、競走生活と同じくらい個性的で、多くの人々に感銘を与えるものだったのです。

稀代のステイヤー、障害馬術への挑戦

多くのG1ホースが種牡馬となったり、功労馬として静かな余生を送ったりする中、デルタブルースが最初に歩んだ道は極めて異例なものでした。引退後、彼は生まれ故郷である北海道のノーザンホースパークへ移動し、なんと障害馬術用の乗用馬としての再トレーニングを開始します。

これは、言うは易く行うは難し、という挑戦です。競走馬は、全速力で「前へ」進むことだけを徹底的に教え込まれます。一方で、障害馬術は、騎手との緻密なコンタクトを取りながら、決められた歩数で障害を正確に飛越する、全く異なる種類の繊細さと集中力が求められる競技です。そのため、多くの競走馬にとってこの転身は非常に困難なのですが、デルタブルースは、その賢さと穏やかな気性で見事にこの課題をクリアしました。この事実は、彼が単なる優れた競走能力だけでなく、高い知性と従順さを兼ね備えた、稀有な馬であったことを証明しています。

終の棲家「オールド・フレンズ・ジャパン」での穏やかな日々

乗用馬としてのキャリアを終えた後、デルタブルースはようやく終の棲家を見つけます。2021年、彼は岡山県真庭市にある認定NPO法人が運営する引退馬牧場「オールド・フレンズ・ジャパン」へと迎えられました。ここは、引退した名馬たちがファンとふれあいながら穏やかに暮らすことを目的とした、日本の引退馬支援における先進的な施設の一つです。

そこでのデルタブルースは、同じG1馬のアロンダイトジャガーメイルといった仲間たちと共に、穏やかな日々を過ごしました。現役時代の激しい闘争心は影を潜め、訪れるファンに優しく鼻を寄せるなど、その穏やかな姿は多くの人々を癒したと言います。施設のスタッフからは、その落ち着き払った風格から「大黒柱のような存在」として深く敬愛されていました。

このような施設は、引退馬たちが安心して余生を送れるだけでなく、ファンがかつての英雄と再会できる貴重な場所でもあります。デルタブルースがここで穏やかに過ごす姿は、引退馬支援の重要性を多くの人々に伝える、何よりのメッセージになったのではないでしょうか。

英雄の旅立ちと、国境を越えた追悼

しかし、穏やかな時間は永遠には続きませんでした。2024年10月8日、デルタブルースは蹄葉炎(ていようえん)の悪化に伴い、安楽死の措置が取られ、23年の偉大な生涯に静かに幕を下ろしました。ちょうど1年前の出来事です。

蹄葉炎(ていようえん)とは?

蹄(ひづめ)の内部にある「蹄葉」という組織が炎症を起こす、馬にとって非常に深刻で、激しい痛みを伴う病気です。体重を支える蹄に発症するため治療が難しく、一度発症すると完治は困難で、馬のQOL(生活の質)を著しく損なうことから、安楽死の決断が下されることも少なくありません。

オールド・フレンズ・ジャパンは公式に「彼がいなくなった厩舎は、とても寂しく感じます」とその死を悼み、ファンや関係者への感謝を表明しました。この訃報は瞬く間に広がり、日本のファンはもちろんのこと、彼が歴史的快挙を成し遂げたオーストラリアの競馬メディアも「日本の英雄、メルボルンカップ覇者が逝去」と大きく報じました。彼の功績と存在が、国境を越えていかに多くの人々の記憶に刻まれていたかを、改めて示す出来事でした。

競走生活では世界の頂点に立ち、引退後はその賢さで新たな道を切り拓き、最期は多くの人々に愛されながら旅立っていったデルタブルース。彼の馬生そのものが、一頭のサラブレッドが持つ可能性の大きさを伝える、壮大な物語だったのです。

デルタブルースの東京大賞典が示した挑戦

  • デルタブルースは菊花賞とメルボルンカップを制した名馬
  • キャリアの原点は遅咲きのステイヤーとしての素質だった
  • 岩田康誠騎手とのコンビで掴んだ菊花賞は人馬ともに初のGI制覇
  • オーストラリア遠征では歴史的快挙となるメルボルンカップを制覇
  • 実況の「Japan One Two!!」は競馬史に残る名シーンとなった
  • キャリア晩年の2007年に大きな挑戦へと向かう
  • 芝の有馬記念から中5日でダートの東京大賞典へ出走
  • この異例の連闘は競馬界の常識を覆すものだった
  • 挑戦の背景には芝での頭打ちと新天地への模索があった
  • 東京大賞典の結果は12着と振るわなかった
  • しかし挑戦する姿勢そのものが彼の価値を物語っている
  • 彼が種牡馬になれなかった理由は去勢されたセン馬だったため
  • 引退後は乗馬に転身し、その後は岡山県の牧場で余生を過ごす
  • 2024年10月に23歳でその生涯を閉じた
  • デルタブルースの東京大賞典挑戦は最後まで諦めない魂の象徴
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