「サニー ブライアン 菊花賞」という言葉で検索されたあなたは、1997年に競馬界を席巻したあの二冠馬の、栄光と謎に満ちた物語の核心に迫ろうとしているのかもしれません。彼の成績の中でも特に輝くのが、低評価を覆したサニーブライアン 皐月賞と、その実力が本物であることを証明したサニーブライアン ダービーでの圧巻の勝利です。当時、一度目の勝利はサニーブライアン フロックではないか、という声も囁かれましたが、ダービーでの快挙は「サニーブライアン フロックでもなんでもない」という名実況とともに、全ての疑念を晴らしました。驚くべきサニーブライアン 皐月賞 配当は、今なお語り草となっています。この記事では、主戦のサニーブライアン 大西騎手との絆、ダービーでサニーブライアン 武豊騎乗の有力馬を退けた戦い、そして同世代の好敵手サニーブライアン サイレンススズカとの関係性にも光を当てます。しかし、二冠達成後、なぜ彼は三冠のかかる菊花賞の舞台から姿を消したのでしょうか。その衝撃的なサニーブライアン 引退理由から、引退後のサニーブライアン産駒、そして現代に血を繋ぐサニーブライアン 子孫の活躍、さらにはライバル世代として比較されるスペシャルウィーク 子孫の物語まで、サニーブライアンにまつわる全ての謎を解き明かしていきます。
- サニーブライアンが二冠を達成したレースの全貌
- 菊花賞への出走が叶わなかった衝撃の引退理由
- 主戦騎手やライバル馬との知られざる関係性
- 種牡馬としての成績と現代に繋がる子孫たちの活躍
なぜサニーブライアンは菊花賞を走れなかったか
- クラシックまでのサニーブライアンの成績
- 波乱のサニーブライアン皐月賞とその配当
- 「サニーブライアンはフロック」という評価
- 圧巻の逃げ切り勝ちサニーブライアンダービー
- 実況「サニーブライアンはフロックでもなんでもない」
- サニーブライアンと大西騎手の人馬一体

クラシックまでのサニーブライアンの成績
サニーブライアンが二冠を達成するまでの道のりは、決して順風満帆なものではありませんでした。むしろ、クラシックの主役候補としては、多くの競馬ファンや専門家の視野の外にいたと言っても過言ではないでしょう。ここでは、彼が栄光を掴むまでの競走成績を振り返ります。
デビュー当初からG1を勝つような雰囲気は、正直なところあまり感じられませんでした。しかし、一戦ごとに着実に力をつけていったのは事実です。
デビューからクラシック前哨戦まで
サニーブライアンのデビューは1996年11月の東京競馬場。新馬戦を見事に勝利で飾りますが、その後は勝ちきれないレースが続きます。2戦目の府中3歳ステークス(当時の馬齢表記)では4着、続くホープフルステークスでは7着と、重賞の壁に跳ね返されました。年が明けても、ジュニアカップ8着、若葉ステークス4着と、クラシック出走へ賞金を加算したいところで惜しい競馬が続きました。しかし、クラシック第一弾である皐月賞への最終切符をかけた弥生賞で3着に好走し、なんとか滑り込むことに成功します。
| 開催日 | 競馬場 | レース名 | 距離 | 人気 | 着順 | 騎手 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1996/11/02 | 東京 | 3歳新馬 | 芝1400m | 2番人気 | 1着 | 大西直宏 |
| 1996/11/23 | 東京 | 府中3歳S (G3) | 芝1800m | 5番人気 | 4着 | 大西直宏 |
| 1996/12/22 | 中山 | ホープフルS (OP) | 芝2000m | 6番人気 | 7着 | 大西直宏 |
| 1997/01/12 | 中山 | ジュニアC (OP) | 芝2000m | 4番人気 | 8着 | 大西直宏 |
| 1997/03/02 | 中山 | 弥生賞 (G2) | 芝2000m | 8番人気 | 3着 | 大西直宏 |
| 1997/03/15 | 中山 | 若葉S (OP) | 芝2000m | 2番人気 | 4着 | 大西直宏 |
| 1997/04/13 | 中山 | 皐月賞 (G1) | 芝2000m | 11番人気 | 1着 | 大西直宏 |
| 1997/06/01 | 東京 | 東京優駿 (G1) | 芝2400m | 6番人気 | 1着 | 大西直宏 |
ポイントは、G1を勝つまで一度も1番人気に支持されたことがなかった点です。この事実が、後の皐月賞での低評価、そして波乱の立役者となる伏線となっていました。

波乱のサニーブライアン皐月賞とその配当
1997年4月13日、中山競馬場で行われた皐月賞は、競馬史に残る波乱のレースとなりました。主役は、18頭立て11番人気という低評価だったサニーブライアンです。
なぜこれほどまでに人気がなかったのか、その理由は明確でした。前述の通り、前哨戦である弥生賞で3着と好走はしたものの、続く若葉ステークスでは4着に敗退。G1で勝ち負けを演じるには、実績が乏しいと判断されたのです。加えて、父ブライアンズタイム、母サニースイフトという血統も、当時は一流とは言い難い評価でした。
しかし、レース本番でサニーブライアンは覚醒します。好スタートから先行集団に取り付くと、直線で力強く抜け出し、後続の追撃を振り切って見事に優勝。この勝利がどれほどの衝撃だったかは、配当金が物語っています。
皐月賞の主な配当
- 単勝 (8番): 6,690円 (11番人気)
- 馬連 (8-13): 40,150円 (48番人気)
単勝に1,000円を投じていれば66,900円、馬連なら401,500円になるという、まさに「万馬券」と呼ばれる高額配当でした。この結果は、多くの競馬ファンの馬券を紙くずへと変え、同時にサニーブライアンの名を競馬史に刻み込むことになったのです。

「サニーブライアンはフロック」という評価
皐月賞を制し、クラシックホースの仲間入りを果たしたサニーブライアンですが、世間の評価は驚くほど厳しいものでした。多くのメディアや競馬評論家、そしてファンは、彼の勝利を「フロックではないか」と疑いの目で見ていたのです。
このように評価された理由は、主に以下の3点が挙げられます。
- 展開利があったという見方
皐月賞は先行した馬に有利なレース展開だったと分析され、サニーブライアンは単にその流れに乗っただけ、という見方が大勢を占めました。 - 実績不足と地味な血統
前述の通り、G1制覇までの戦績は平凡であり、血統背景からも突出した存在とは見なされていませんでした。 - 有力馬の敗因
1番人気に支持されたメジロブライト(5着)や、素質を高く評価されていたサイレンススズカ(6着)が本来の力を発揮できなかったことが、サニーブライアンの勝利に繋がったと考える人が多かったのです。
注意点として、これは当時の一般的な論調であり、サニーブライアンの実力を正当に評価する声が全くなかったわけではありません。しかし、次走の日本ダービーで皐月賞馬にもかかわらず6番人気という評価だった事実が、「フロック」という見方がいかに根強かったかを物語っています。
この逆風の中、サニーブライアンと大西騎手は、次なる大舞台である日本ダービーへと向かうことになります。

圧巻の逃げ切り勝ちサニーブライアンダービー
1997年6月1日、東京競馬場。皐月賞の勝利が本物の実力によるものなのか、それとも単なるフロック(まぐれ)だったのか――。日本中の競馬ファンが固唾をのんで見守る中、サニーブライアンの真価が問われる運命のゲートが開きました。
二重の逆風「低評価」と「大外枠」
皐月賞馬という栄誉ある称号を手にしながら、サニーブライアンに与えられた評価は驚くほど低いものでした。単勝オッズは6番人気。1番人気には武豊騎乗のランニングゲイル、2番人気には雪辱を期すメジロブライトが支持されるなど、ファンの信頼は他の有力馬に向けられていたのです。
さらに、追い打ちをかけるように与えられたのが、東京競馬場2400mにおいて絶対的に不利とされる大外18番枠でした。この条件は、サニーブライアンにとって二重の逆風だったと言えるでしょう。
なぜ大外枠は不利なのか?
東京競馬場の2400mコースは、スタートしてから最初のコーナーまでの距離が短いため、外側の枠に入った馬は内側の馬よりも長い距離を走らされる「コースロス」が大きくなります。特に、先行したい馬や逃げたい馬にとっては、先頭に立つまでに余計なスタミナを消耗しやすく、レース終盤での失速に繋がりやすい「鬼門」とも言える枠順なのです。
レースを支配した完璧なペース配分
しかし、大西騎手とサニーブライアンは、この絶望的とも思える条件を最大の武器に変えてみせます。ゲートが開くと、大西騎手は慌てて内に切れ込むことはしませんでした。まず外から静かにスピードに乗せ、他馬の出方を冷静に見極めてから、最初のコーナーでスムーズに先頭に立ちます。
ここからが、まさに「人馬一体」の真骨頂でした。大西騎手はサニーブライアンを完璧にコントロールし、レースのペースを完全に支配します。最初の1000mの通過タイムは61秒5。これはダービーの歴史の中でも比較的ゆったりとしたスローペースであり、逃げるサニーブライアンにとってはスタミナを温存できる理想的な展開でした。
計算され尽くした逃げ
このペース配分は、大西騎手が「このペースで運べれば、絶対に最後まで脚が持つ」という、愛馬への絶対的な信頼があったからこそ可能になったものです。他の騎手たちが牽制しあう中、彼は自分と馬のリズムだけを信じてレースを進めていました。
ライバルをねじ伏せた最後の直線
大観衆が待つ最後の直線。理想的な形で逃げてきたサニーブライアンの脚色は、全く衰えませんでした。後方からは1番人気のランニングゲイルや、末脚自慢のシルクジャスティスが必死に追いすがりますが、その差は一向に詰まりません。むしろ、ゴールが近づくにつれてリードを広げているかのような、圧倒的な走りを見せつけます。
そして、ついに先頭でゴール板を通過。皐月賞の先行抜け出しとは全く異なる、自らレースを作り、ライバルたちを力でねじ伏せる圧巻の逃げ切り勝ちでした。これ以上ない形で、サニーブライアンは自らの実力が本物であることを、日本中のファンに証明したのです。
不利な大外枠から、誰にも文句を言わせない完璧な逃げ切り勝ちを収める。これほどまでに格好いいフロック説の覆し方があったでしょうか。このレースが、今なお多くのオールドファンの心に焼き付いている理由がよく分かりますね。

実況「サニーブライアンはフロックでもなんでもない」
サニーブライアンのダービー制覇を語る上で、絶対に欠かすことができないのが、レースの実況を担当したフジテレビの三宅正治アナウンサーによる歴史的な名言です。
ゴール直後、興奮冷めやらぬ中で三宅アナウンサーが叫んだ「これはもう、フロックでもなんでもない!二冠達成!」という言葉は、多くの競馬ファンの心に深く刻まれました。
まさに、あの瞬間に競馬場にいた全てのファン、そしてテレビで観戦していた人々の気持ちを代弁するような一言でしたね。この実況が、サニーブライアンの物語をよりドラマチックなものにしたのは間違いありません。
この一言は、単なるレース結果を伝える以上の意味を持っていました。それは、皐月賞以来サニーブライアンに付きまとっていた「フロック」という不当な評価に対する、高らかな反論だったのです。ダービーでの圧巻のパフォーマンスと、この名実況が組み合わさることで、サニーブライアンはフロック視されていた存在から、真の実力を持つ二冠馬へと、その評価を完全に覆したのです。
この実況は、今なお競馬の名場面を振り返る際には必ずと言っていいほど引用され、サニーブライアンという馬の伝説を象徴する言葉として生き続けています。

サニーブライアンと大西騎手の人馬一体
サニーブライアンの二冠達成という偉業は、一頭の馬の能力だけで成し遂げられたものではありません。その物語の中心には、常に主戦を務めた大西直宏騎手の存在がありました。デビューから引退まで、一度も手綱を他の騎手に渡すことなく、全8戦を共に戦い抜いたその絆こそ、サニーブライアンの伝説を語る上で最も重要な核心部分と言えるでしょう。
競馬界の常識を覆した「魂のコンビ」
このコンビがなぜ特別だったのかを理解するためには、まず当時の大西騎手の立場を知る必要があります。1997年当時、デビュー9年目を迎えていた大西騎手は、G1レースでの勝利経験はもちろんなく、まだ重賞勝ちも数えるほどの中堅騎手でした。有力馬にはトップジョッキーが騎乗し、若手や中堅はチャンスを得ることすら難しいというのが、当時の競馬界の厳しい現実でした。
そのような状況下で、一人の騎手が無名の若駒にデビューから乗り続け、クラシック二冠を制覇するなど、まさに「異例中の異例」であり、常識では考えられない出来事だったのです。
特別な絆の原点「サニースワロー」
では、なぜ乗り替わりがなかったのでしょうか。その答えは、馬主である宮崎守保氏の強い信念と、大西騎手との長年にわたる信頼関係にありました。宮崎氏は、サニーブライアンの母の兄にあたるサニースワローという馬も所有しており、その主戦も大西騎手が務めていました。1994年、サニースワローは大西騎手に自身初の重賞制覇(新潟3歳ステークス)をプレゼントしてくれた、いわば恩人のような馬だったのです。この経験を通じて築かれた固い信頼関係が、サニーブライアンへと受け継がれていきました。
「ダービーを勝っても騎手は代えないでほしい」
皐月賞を11番人気で制した後、陣営にはトップジョッキーへの乗り替わりを暗に勧める声もあったと言われています。しかし、馬主の宮崎氏は「もしダービーを勝つようなことがあっても、絶対に騎手は代えないでほしい」という自身の哲学を貫き通しました。馬を育て、共に苦労してきた騎手と共に最高の栄誉を掴む。その人情味あふれる信念が、この奇跡のコンビを守ったのです。
そして、その信頼に応えるかのように、大西騎手はサニーブライアンの能力を完璧に引き出していきます。彼はサニーブライアンの性格を「とても賢いが、少し臆病な面もある」と深く理解し、常に馬をリラックスさせることを最優先に考えていたと言います。レースで馬が持つ能力を最大限に発揮させる、まさに「人馬一体」を体現していたのです。
名言に込められた静かなる闘志
このコンビを象徴するエピソードが、ダービー前に大西騎手が発したあまりにも有名な言葉です。
「一番人気はいらない。一着だけがほしい」
皐月賞を勝ってもなお6番人気という低評価。この言葉は、そうした周囲の雑音に対する単なる強がりではありませんでした。これは、自分と愛馬の実力だけを信じ、最高のパフォーマンスを発揮することに集中するための、静かなる闘志の表れだったのです。人気や評価という外部からのプレッシャーから自らと馬を解放し、ダービーという最高の大舞台で、人馬の絆の強さを見事に証明してみせました。
馬を信じる騎手、その騎手を信じ抜いた馬主、そしてその信頼に応え続けた馬。この三位一体の固い絆があったからこそ、競馬界の常識を覆す二冠達成というドラマが生まれたのです。
語り継がれる二冠馬サニーブライアンと幻の菊花賞
- サニーブライアンと武豊が激突したダービー
- 宿命のライバル、サニーブライアンとサイレンススズカ
- 栄光の代償だったサニーブライアン引退理由
- 父となったサニーブライアン産駒とその子孫
- 比較されるスペシャルウィーク子孫との活躍
- 語り継がれるサニーブライアンと菊花賞の夢

サニーブライアンと武豊が激突したダービー
サニーブライアンが制した1997年の日本ダービーは、若き大西直宏騎手と、既にトップジョッキーとして君臨していた武豊騎手との対決という側面も持っていました。
この年のダービーで1番人気に支持されたのは、武豊騎手が騎乗するランニングゲイルでした。皐月賞ではメジロブライトに騎乗(5着)していた武豊騎手は、ダービーでは別の有力馬に乗り替わって参戦。対するサニーブライアンと大西騎手は、前述の通り皐月賞を勝ったコンビそのままです。
レースは、大外から逃げるサニーブライアンを、ランニングゲイルが中団から追いかける展開となりました。直線、多くのファンが「やはり武豊か」と思った瞬間、サニーブライアンは驚異的な粘りを見せ、追撃を完封します。結果はサニーブライアンが1馬身差で勝利し、ランニングゲイルは2着に終わりました。
この結果は、若手の無名騎手が百戦錬磨のトップジョッキーを打ち破ったという、競馬のドラマ性を象徴する出来事となりました。馬と騎手の信頼関係が、スター騎手の技術を上回った瞬間とも言えるでしょう。サニーブライアンの伝説は、このような対決の構図があったからこそ、より一層輝きを増したのです。

宿命のライバル、サニーブライアンとサイレンススズカ
サニーブライアンと同じ1994年生まれの世代には、後に「異次元の逃亡者」として伝説となるサイレンススズカがいました。この2頭は、共に逃げ・先行を得意とする脚質であり、競馬ファンからは宿命のライバルとして比較されることが多い存在です。
皐月賞、日本ダービーの両レースで2頭は直接対決を果たしています。しかし、クラシックの時点では、まだサイレンススズカは本格化前でした。
| レース名 | サニーブライアン | サイレンススズカ | 結果 |
|---|---|---|---|
| 皐月賞 (G1) | 1着 | 6着 | サニーブライアンの勝利 |
| 日本ダービー (G1) | 1着 | 7着 | サニーブライアンの勝利 |
特にダービーでは、サニーブライアンが大逃げを打つ一方、サイレンススズカは控える競馬を選択し、力を発揮できずに終わりました。競馬ファンの間では「もしダービーでサイレンススズカが逃げていたら、レース展開はどうなっていたか」という「if」が、今なお熱く語られています。
サニーブライアンがターフを去った後、サイレンススズカは本格化し、圧巻の逃げでG1を制覇します。活躍した時期は異なりますが、同じ時代に生まれた個性的な2頭の逃げ馬の物語は、多くのファンの記憶に残り続けています。

栄光の代償だったサニーブライアン引退理由
二冠を達成し、ナリタブライアン以来となる史上6頭目の三冠馬誕生へ、日本中の競馬ファンが夢を膨らませていました。しかし、サニーブライアンが三冠目の舞台である菊花賞に出走することはありませんでした。その理由は、日本ダービーでの栄光と引き換えに負った、あまりにも過酷な代償だったのです。
歓喜から一転、ダービー後に見つかった異変
日本ダービーを制した数日後、勝利の余韻に浸る陣営を不安が襲います。サニーブライアンの歩様にわずかな乱れが見られ、すぐに検査が行われました。その結果、獣医師から告げられた診断名は「右前脚第三中手骨骨折」。ダービーでの渾身の激走は、彼の脚に限界を超える負荷をかけていたことが明らかになった瞬間でした。
ただ、この時点での診断は「全治3ヶ月」というものでした。このため、陣営や多くのメディアは「休養すれば、秋の菊花賞には十分に間に合うだろう」という楽観的な見通しを立てていました。ファンもまた、二冠馬の順調な回復と、秋の淀(京都競馬場)での快走を信じて疑わなかったのです。
当時の空気感
夏の競馬雑誌やスポーツ新聞では、「サニーブライアン、三冠へ視界良好」「秋の主役は譲らない」といった見出しが躍っていました。骨折という事実はありながらも、その深刻さはまだ共有されておらず、悲観的なムードはほとんどありませんでした。
追い打ちをかけた不治の病「屈腱炎」
しかし、夏が過ぎてもサニーブライアンの回復は思うように進みませんでした。骨折した箇所の回復が遅れる中、状況をさらに絶望的にする、追い打ちの診断が下されます。それが、競走馬にとって「不治の病」、あるいは「競走馬のガン」とも呼ばれる屈腱炎(くっけんえん)の発症でした。
これにより、三冠への挑戦は事実上完全に断たれてしまいます。陣営はそれでも望みを捨てず、福島県の温泉施設で療養させるなど、復帰へ向けて懸命の努力を続けました。しかし、一度発症した屈腱炎の回復は極めて困難を極め、ターフに戻ることは叶いませんでした。
なぜ屈腱炎は競走馬にとって致命的なのか
馬の脚にある腱は、強靭なバネのように機能し、高速で走るための重要な役割を担っています。屈腱炎は、この腱の繊維が部分的に断裂し、激しい炎症を起こす病気です。問題は、一度断裂した腱の組織は、元の弾力性を持った正常な組織には二度と再生されない点にあります。硬い瘢痕(はんこん)組織に置き換わってしまうため、腱の柔軟性が失われ、レースの負担に耐えられずに非常に高い確率で再発してしまうのです。このため、多くの名馬が屈腱炎によって、その競走生命を絶たれてきました。
「幻の三冠馬」伝説の始まり
三冠の夢が絶たれ、復帰も絶望的となったサニーブライアンは、ダービーから約11ヶ月後の1998年4月22日、ついに現役引退が正式に発表されました。皐月賞、日本ダービーと連勝したあの輝かしい春の記憶は、あまりにも早く過去のものとなったのです。
もし彼が無事だったら、菊花賞でどんな走りを見せてくれたのか。そして、古馬になってからサイレンススズカやスペシャルウィーク世代とどんな名勝負を繰り広げたのか…。考えても仕方のないことですが、そう夢想せずにはいられませんね。
このように、栄光のダービーが最後のレースとなり、ターフを去らなければならなかった悲劇的な結末が、サニーブライアンを「幻の三冠馬」として、ファンの記憶に永遠に刻み込むことになりました。彼の競走生活はわずか8戦という短いものでしたが、その鮮烈な輝きと儚さが、今なお多くの人々を惹きつけてやまないのです。

父となったサニーブライアン産駒とその子孫
競走馬としてのキャリアは道半ばで断たれましたが、サニーブライアンは種牡馬(父馬)として第二の馬生をスタートさせました。G1馬を輩出するような華々しい成功を収めたわけではありませんが、彼は父として着実にその血を後世に繋いでいきました。
サニーブライアン産駒は、中央競馬(JRA)よりも地方競馬で多くの活躍馬を出す傾向がありました。産駒の全体的な特徴としては、父と同じくダートや短い距離を得意とする馬が多かったようです。
主なサニーブライアン産駒
- グランリーオ: 2004年 中日新聞杯(G3) 優勝
- カゼニフカレテ: 2006年 愛知杯(G3) 優勝
- サニースマイル: 地方競馬で重賞5勝
G1を制覇する産駒は現れませんでしたが、重賞を勝つ馬を複数輩出し、種牡馬として一定の成功を収めたと言えます。そして、彼の血は娘たちを通じて、現代にも受け継がれています。サニーブライアンの子孫たちは、ブルードメアサイアー(母の父)として、その存在感を示しているのです。

比較されるスペシャルウィーク子孫との活躍
サニーブライアンの翌年、1998年の日本ダービーを制したのがスペシャルウィークです。彼は現役時代の輝かしい成績もさることながら、種牡馬として大成功を収めました。
スペシャルウィークの子孫からは、数多くのG1馬が誕生しています。その代表格が、牝馬三冠を達成したブエナビスタや、日米のオークスを制したシーザリオ(その子供にはエピファネイアやサートゥルナーリアなどがいる)です。まさに、日本競馬を代表する名牝たちを輩出したのです。
種牡馬としての成績を単純に比較すれば、スペシャルウィークに軍配が上がるのは事実です。しかし、サニーブライアンの血もまた、決して途絶えてはいません。彼の娘たちが産んだ馬がレースで活躍することで、サニーブライアンの血は母系に入って生き続けています。派手さはないかもしれませんが、彼の不屈の魂は、子孫たちによって確かに受け継がれているのです。
二頭のダービー馬が、それぞれ異なる形で現代競馬に影響を与えているという事実は、血統の奥深さと競馬のロマンを感じさせてくれます。

語り継がれるサニーブライアンと菊花賞の夢
この記事では、サニーブライアンがなぜ菊花賞に出走できなかったのか、その理由と彼の競走生活、そして引退後の物語を解説してきました。最後に、そのポイントをリスト形式で振り返ります。
- サニーブライアンは1997年の皐月賞と日本ダービーを制した二冠馬
- 皐月賞は11番人気という低評価を覆しての勝利だった
- その勝利はフロック(まぐれ)ではないかという声が根強かった
- 日本ダービーでは6番人気ながら大外枠から圧巻の逃げ切り勝ちを収めた
- ダービー制覇時の「フロックでもなんでもない」という実況は伝説となっている
- 主戦騎手はデビューから引退まで一貫して大西直宏騎手が務めた
- ダービーでは武豊騎乗の1番人気馬を破って勝利した
- 同世代には後に伝説となる逃げ馬サイレンススズカがいた
- 菊花賞に出走できなかった引退理由はダービーで負った骨折と屈腱炎の発症
- 三冠の夢は絶たれ、ダービーが最後のレースとなった
- 種牡馬としては重賞勝ち馬を複数輩出した
- 産駒や子孫は主に地方競馬で活躍した
- 翌年のダービー馬スペシャルウィークは種牡馬として大成功を収めた
- サニーブライアンの血は母の父として現代にも受け継がれている
- 彼の物語は多くの競馬ファンに今なお語り継がれている
